昭和五十六年七月七日 朝の御理解


御理解第三十六節
日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ。人にものを頼むにも、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる。


 草一つでも芯と言うたら一つじゃとこうおっしゃる。その芯の立て方とでも申しましょうか、心一心と言うことでございますが、非常に幅の広い言葉だと思うんです。昨日の昼の研修の後に、堀内さんの真一心がということがでておりましたがね、信心はその真一心なんです。
 しかもそれを貫くことですね。で、結局、そして、それを、そうせずにはおれない、まあ、昨日のお話の裏付けをするようにと云うて、後にお話をいました。ある教会の総代さん方が、二人で、昨日一昨日、お礼参拝をしてきております。毎月、大体ここと全然関係のない教会ですけれども、おかげをうけるんですね。しかも人がどんどん助かるんです。毎月、もう本当にまあ、一生懸命のお供えでしょうね。お初穂を必ず、お参りしてはきませんけれども、送ってくるです。そこの教会の総代さん方が二人、末永先生が丁度奉仕をしとるときですから、六時頃だったそうですけれど、あのう、日々おかげを頂いておりますと云うて、超特級の月桂冠を十本もって、お礼にでてきたと言う話を昨日致しました。
 真心一心、しかもね、形にそうせずにはおれないというところにあるんです。一心とはそう言うことなんです。一心を えすりやよいというのじゃない。一心を現して行くと言うこと。そりゃぁ総代さん方が二人もお礼にでて来ておるのですから、なら月桂冠なら二本、超特級の御神酒を二本も持ってくりゃぁ措置でまあ、言うなら言う、ちょっとお供えのしすぎのようにある。ちょっと変わったおなごですけれども、先生だなぁで、後で話したことですけれどもね、そりゃ、大祭が何かというならばですけれども、普通のお礼参拝に超特級の御神酒を十本ももってお礼に、しかも総代二人、お礼にでて来ておる。結局その先生としては、そうせずにはおれないのです。
 そこにね、言うならば女の先生であるにもかかわらず、女の先生と男の先生と変わりはしませんけれども、人がどんどん助かる。堀内さんの場合でもそう言うことが云えます。もうこれは何か、神様へ向けられる特に、昨日の信者に無理な、例えばお供えをさせては、神は喜ばんという無理なお供えじゃない。信者がそうせずにはおられん。そうする事に、一つは生きがいさえも感じておるといったようなおかげを頂けば、それは神の比礼じゃとおっしゃるね。
 だから、その神の比礼が自分達にも頂けないはずがないわけですね。私は真心一心、真、真とは勿論、本当な事が真。
 それを一心に、しかも、それが突き抜き表されるというところに、草木でも芯と言うたら一つじゃとそういう一心。
 いつか清濁一如ということを頂きましたね。昨日、研修の時だったでしょうか、御祈念中にいろんな雑念が、妄念がこう起こってくる。もうむらむらと起こってくる。御祈念我されん。だから私が申しました。その雑念、妄念もよう考えよるとお礼が申し上げる事ばいと、わざわざ、こうこうやって、打ち払う事はいらんち私は申しました。ようとその雑念妄念も、調べてみてごらん。いうなら、清濁一如の精神でいくと、神様にお礼申し上げる事ばっかりばいち。そこに一心が立つね。草木でも芯と言うたら一つじゃ、はあ、雑念が妄念がち、一心になろうとして、一心になれないということはない。
 これは福岡の三代の吉木辰次郎先生がお出になられた。私が福岡で修行中でしたから、毎朝お参りさしてもらうた。よくお話をしておられたことの中に、ある年末のいよいよ押し迫ったある日、小倉が親教会ですから、親教会の先生がお好きである、毎年浅草海苔の缶入りをお歳暮にいつもなさる。で、それを持って年末のお礼参拝をされるんだけれども、その年に限って、とにかく手が外されない事ばっかりで出来なかった。それで神様に、実は私が参りますのが本当でございますけれども、息子誰々を代参させますからどうぞよろしくと云うて、息子さんが代参を頼まれたところが、その神様がお知らせ下さったのに、”お前は今こうすることが本当だと言ってるじゃないか”と、信心とは本当と思うた事を行う事が本当な信心者と言う御教えを頂かれたという話をね、聞いた事があります。
 それで息子さんをやろうとしておられたのを、自分がお礼参拝をしたと言う話でございますね。だから自分がこれが本当だと思うておるから神様は本当な事をせろと、こうおっしゃるのです。
 だからその自分が思うておる本当な事と言うことが、いよいよ信心がね、おかげを頂いて、昨日一昨日でした、伊万里から、参ってきたある青年が、もう金光様の御信心は一切が神愛ち言うことが分かれば、お取次やら、お参りせんでんよかですねち、いうんですよ。ん、そうだよち、一切が神愛と分かったら、参るこつもいらんし、拝むこともいらんし、自分でお礼を云うていったらそれでいいから、それでよかとこじゃなかばってんね。
 ところが本当に、神愛と思えれ、分かっただけじゃいかん。だから、分かる為にお参りするんだよ。実験実証さして頂いて、ある程と合点がいくところまでいくためには、限りない精進がいるんだよと云うて話した事です。
 分かったら、もう参らんでん、お取次頂かんでんよいと言うような考え方なんですね。そして自分から、いろいろ神様からお知らせを頂いてね、大変熱心に今朝参りをいま、伊万里支部の方にしておる青年ですね。だから分かっただけではいかんところにね、言うならば、本当と分かると言うことは、素晴らしい事なんです。ところが今も申しますように、妄念、雑念。はあこんなこつじゃ一心は立たんと思う心が本当か、その妄念も雑念も一連拓生にですね、神愛としていただける(神愛の一部であると訂正される)いわゆる、清濁一如の信心が出けたら一つになる一心。
 勿論私共は御教えを頂いて、こうする事が本当だと分からして頂いたら、そりゃやっぱ、実験していくことです。実証していく中に、段々というならば、これは西村という、何かという偉い先生のお歌の中に(正教さん覚えとらんじゃろうかのうや)”猿股を拝みて?く我とはなりぬ”という歌があろうが、誰じゃったか。西宮教会のあのう偉い先生のこりゃ昔の話ですけれども、その私はお歌を頂いたことがありますがね。もう汚いものとかね、お粗末御無礼なものと思うとったものの中にでも、お礼の言えれるこころの状態が開けて来ると言うことは、いつでもそこからそういう一心が有り難い一心を立てていくことが出来るのです。 今日は草木でも芯というたら一つじゃとこう仰せられる、その一心を真一心~清濁一如の一心を聞いて頂きましたですね。           どうぞ